激動の社会人~現在

タカラ倉庫運輸サービス勤務時代

高校を卒業して、帝京女子短期大学に進みましたが、実家の稼業がたちゆかなくなり、1年で中退しました。

その当時のお隣さんのご紹介で、タカラ倉庫運輸サービスの社長さんに会いに母と一緒に会社へ伺いました。


私は短期アルバイトでお世話になると思っていましたが、社長さんからは「経理で、正社員で」とのお話を頂き、正直言いますと、何が何だか分からない間に「明日からおいで」と言われ、会社員生活がスタートしました。


右も左も分からない私を当時の経理責任者であった女性上司の方は、文字通り手取り足取り教えてくださり、そこで簿記や帳簿のつけた方を一から学びました。上司の方は、まるで子供だった私にも敬語で話されて、叱る時にはしっかり叱り、ほめる時にはとことん褒めてくださるとても素敵な方でした。仕事だけでなく、社会人・女性としての生き方を教えて下さった方でした。そして、現在でも私の理想の方です。2011年12月に急逝された時には、お顔を思い出すたびに涙が溢れ3回目の命日までは平常心ではいられませんでした。今でも、もうお会いできなくなったことが信じられないですが、どこかであの優しい笑顔で私を見守って下さっていると信じています。会社の目の前で車に引かれた野良犬を会社で飼っていただくことになり、順番に、皆で面倒をみていました。名前はモモちゃんです。


シドニー(オーストラリア)留学時代

7年お世話になったタカラ倉庫を退社し、シドニーへと旅立ちました。この頃には、日常英会話程度は問題なくできていましたが、「仕事で英語を使いたいという」夢は日に日に大きくなりオーストラリアに思い切って旅立ちました。色々な国の方と接し、外から日本を見ると自分というものが、よく見えてきました。 私は外国かぶれでしたので、発想も西洋的であると思っていましたが、シドニーで生活をして初めて、自分のルーツを感じました。日本人であることを、誇りに思う自分を認識できたのは大きな出来事でした。


留学時代に知り合った地元の方と英会話の本を執筆。 日本に帰国後、数社出版社に営業回りをし、ついに出版しても良いという会社さんが現れ、出版にこぎつけました。しかし、残念ながらこの本は絶版になりました。

アップルコンピュータ勤務時代

初めてアメリカ人上司と仕事をすることが楽しくて・楽しくてという時代です。当時の上司はハーバード大でMBAを取り、カリフォルニア州とジョージア州の公認会計士資格を持つというスーパーウーマンでありながら、グルメでおしゃれでキュートな女性でした。彼女からの勧めもあり、その当時アップルが教育費補助制度を行っていたこともあり、青山学院大学で経営学を学ぶ決心を致しました。


昼間は仕事、夜は大学と2重生活で体力的には大変でしたが、若い同級生達と学ぶことはとても刺激になり、有意義な時間でした。十代の方とバレーボールの試合をするのは大変でしたが(笑)それも今となっては楽しい思い出です。


シマンテック時代

長男を出産し、息子が6か月になったのを機に「再就職活動」を始めました。安易に考えていた私は、いきなり窮地に追い込まれました。


一次面接で面接官に毎回言われるのはいつも同じセリフでした「お子さん小さいけど、大丈夫ですか?」。私的には、大丈夫だから面接に来ているということを訴えますが、結果は散々たるものでした。


もう諦めようかと思っていた時にシマンテックで広報をしていた友人が、息子の出産祝と一緒に沢山のシマンテックロゴのついたノベリティグッズを送ってくれました。「シマンテック」という会社名を思い出しウエブサイトを見ましたら「ファイナンシャルアナリスト募集」の文字が。ウエブ登録をして、数日後にシマンテック人事部から連絡を頂き、エネルギーを注入し直して面接に向かいました。すると、面接官一人目は中国系アメリカ人男性(この方が私の上司になりました)二人目も中国系アメリカ人男性でした。お二人とも子供の話どころか、プライベートな質問を一切されませんでした。後でわかったことですが、アメリカでは私的な質問を面接の場で聞くことは禁じられているそうです。その後、合計5、6人の方とお会いし、採用して頂けました。

シマンテック時代はシステムの導入などで苦労が多かったですが、当時の部下とは「同じ釜の飯を食った仲間」いう連帯感が強く生まれ、今も時々会っては交流を深めています。


エルメスジャポン勤務時代

当時上司だったフランス人女性から最初に言われたのは「眠っている人たちをゆり起こし、新しい風を吹き込んでほしい」とのことでした。長い伝統と素晴らしい技術に支えられた会社でしたが、当時は官僚的な組織であったと思います。そんな空気を変えてほしいとのことでしたが、少々やりすぎたか、9人いた部下のうち8人が退職し、新しいメンバーに入れ替わるという総入れ替え状態となりました。

 

当時の私の仕事の仕方はひどいもので平日は終電ぎりぎりまで、土日も出勤するような日々でした。帰りの電車の中で眠ってしまい、当時住んでいた横浜を乗り過ごし、気が付いたら辻堂駅ということも多々ありました。この時期は、主人が比較的残業が少ない仕事でしたので、家の事、息子の事、全般的によくサポートしてもらいました。

2011年2012年

生涯の師の急死・自身の手術と自分を見つめなおす機会を得る

2012年

運命に導かれ、藤沢市辻堂を終の棲家とするべく移住。

2013年11月 自由民主党 かながわ政治大学入学

同校の門を叩き、政治を学ぶ。同じ政治を志す仲間と交流を深めることができ、また新しい世界が広がりました。


2015年4月藤沢市議会議員選挙 初出馬

2015年4月19日藤沢市議会議員選挙告示。

選挙戦の前半は雨模様となり、激戦の幕開けにふさわしいものとなりました。36議席に対して46人の候補者が立候補をしました。

 

政治は特別な人のもので、ましてや「市会議員は地元の名士でないとなれない」という一般常識を覆し、後に続く人の勇気になればと思い出馬を決意いたしました。

 

今の議会には、普通の会社員として働く母の市会議員があまりいない現状。子育てママの代弁者になりたいという強い思いがありました。

 

地盤・看板・鞄の無い私でしたが、「母として社会人経験者として、私のような普通の人間も志・情熱があれば政治の

世界で働けるという事を通じて、若い方に少しでも希望を与えたい!」この私の志に賛同してくださる方も増え地元の皆様の支えもあり選挙戦を進めてまいりました。

 

自民党唯一の女性候補者として初出馬致となりました。1668人の方々に投票して頂きましたが46人の候補者の中で39番目という結果となりました。お杉を応援してくださった皆様ありがとう御座います。皆様のご支持を力に藤沢が更に素晴らしい藤沢となるよう活動を続けてまいります。


2016年

1月

箱根駅伝 青山学院大学応援拠点の長をやらせて頂きました。

藤沢市民マラソンでも地元の中学生の皆さんと一緒に給水ボランティアを担当。

4月:

チーム藤沢自民党で、

藤沢駅南口にて熊本・大分で被災された被災者の皆さんへの支援の為に、道行く皆さんに支援のお願いをいたしました。

沢山の方々がご協力してくださいました

現在 「藤沢子育て長屋の会」 代表 


2015年2月28日藤沢市民会館小ホールで「皆で昔の長屋のように支えあう地域社会をつくりませんか!」と題したフォーラムを開催いたしました。写真はパネルディスカッションの様子です。


近年、世代間のコミュニケーションが希薄になってきていること・自分の仲間以外の人との関わりを嫌う若い世代・大家族制などにつき熱い議論を交わしました。

現在の活動

 

  • 「市民後見さざなみネット」賛助会員
  • 「日本看護連盟」賛助会員
  • 「藤沢法人会」賛助会員
  • 青山学院校友会湘南支部役員
  • 辻堂ザ テラス自治会副会長
  • 藤沢ビジネスフォーラム役員
  • ユニバーサルカヌー地元サポーター

 

趣味

旅行・ボディボード

好きな音楽

サザンオールスターズ・小野リサ

好きな映画

ショーシャンクの空に・おくりびと

家族

サラリーマンの夫・高校一年生の息子・アポ(カニンヘンダックスフンド)の3人+1匹家族


杉原えいこサポーターズ

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